笑ってしまえば、すべてがおもしろい。

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笑ってしまえば、すべてがおもしろい。

Everything is funny, if you can laugh at it.

―Lewis Carroll

とは、
不思議の国のアリスで知られるイギリスの作家ルイス・キャロルの言葉。

この笑えばこの世はすべてがおもしろくなる、
っていう考え方は嫌いじゃあない。

人間は、
自分の発した言葉を心の奥底で聞いているものなのだ。

だからつまらないと言えばつまらなくなるし、
辛いと言えば辛くなるし…。

でもおもしろいと言えばおもしろくなるし、
楽しいと言えば楽しくなるのだ。

心ってやつは、
案外自分の言っていることに騙されやすいのかもしれない。

だったら騙して、
おもしろ楽しく暮らしていく方が良い。

不謹慎な笑い?

笑って、
おもしろく生きたい。

もちろん笑ったら不謹慎になってしまうような場面で笑うのはいかがなものかとは思うけど、
最近は子供たちに不謹慎な笑いが増えてきたなんて話も聞く。

それって楽しいから面白いから笑うの、
楽しい・面白いの基準がいろいろになっているからなのかもしれない。

その根源は、
間違いなく大人だろう。

人の不幸を笑いの対象にすることは今や1つのジャンルみたいなものだし、
大人はそれを許しているんだからね。

大人が笑えば子供は一緒に笑うし、
笑うことが正しいと思ってしまうものなのだ。

そんな子供たちが今度は大人になって、
また子供たちの笑いを変えていくことになる。

それが、
良い方向に進むのならいいんだけど。

不幸に笑いが入り込むということ

ところで何か不幸なことが起こった際、
そこに笑いが入り込むのは絶対にダメか?というとそうでもないような気もする。

笑いが入り込む余地がないまま不幸な気持ちを積み重ねて過ごすのは、
不幸の弱体化が遅れる気がするからだ。

誰もがずっと不幸に留まりたいわけじゃあないわけで、
ならばふとした瞬間の可笑しさを積み上げていく方が不幸は和らいでいく気がする。

少し古い映画だけれど、
伊丹十三監督のお葬式みたいなことだ。

但しそれは不幸な人たちが、
自分で自分をある意味笑いの対象にする場合に限ってのことだ。

それを見てつい面白く感じてしまうのは、
悪いことではない。

でも関係のない周辺の奴らが勝手に面白がるのは、
やはりちょっと違う気がする。

不謹慎が不謹慎でなくなる時間的境目はどこにある?

そういえば3.11の時にボクが予約投稿で普段通りにブログの記事を挙げたら、
こんな時に不謹慎だとコメントしてきた奴がいたことをふと思い出した。

記事の内容がどうこうではなく、
こんな時にブログなんてどうかしている云々といった言葉の暴力。

まあ確かあの頃は、
お笑い番組なんかも自粛していた気はするけれどそれが100%正しいとは今でも思えない。

もちろん考え方はいろいろだし、
そういった考え方を否定する気はない。

でも、
不謹慎だと他人にわざわざ言ってくるというのはどういうことだったのだろう?

他にもあちこち訪ねて、
わざわざ不謹慎だと言い回ったんだろうか?

そんな彼もしばらくすると、
普通に記事をアップしていたわけで。

ならば彼にとって、
不謹慎が不謹慎ではなくなる時間的境目はどこにあったんだろう?

自分が間違いなく正しい、
と疑いもしない人は幸せである。

今でも彼の文章を時々目にすることがあるが、
相変わらず自信に満ち溢れて正しいと思っていろいろなことをまき散らしている。

楽しそうで、
なにより。

かなり理不尽で不愉快な出来事だったけど、
笑ってしまえばそれはそれでやはりおもしろいものに変化する。

そうやって笑えれば、
おもしろいのだ。

ただどうしたって笑えない時だって、
当然ある。

それでもトータス松本が唄うがごとく、
とにかく笑えれば 最後に笑えれば 情けない帰り道 ハハハと笑えれば それで良いのだ。

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